キキのテーブルのブログ「4×6 -4つの目、6本の足-」

母の思い出 松ぼっくりの石鹸

時々書いている、母にまつわる思い出話です。
忘我録のような意味もあるので、興味を持たれた方は、
お付き合いください。

 

滅多に夢をみない
(実際にはみているのでしょうが、覚えていない)

私が、久しぶりに夢を見ました。

 

2014年の12月に亡くなった、母の夢です。

母の夢と言っても、実際の母は出てきません。

母に頼まれて送ることになったバスボム(添付写真1)を、
私が作っているのです。

重曹とクエン酸で作るバスボムは、今年になって作り始めたので、

母から頼まれるのは辻褄があいません。

でもそこは夢ですから、母から頼まれたバスボムを
明日まで50個作らなければと、

キッチンテーブルの上で、私は奮戦しているのでした。

 

「まったく、いつも急なんだから。1か月前、いやせめて2週間前に

言ってと、何回説明してもわかんない」
と、私はブツブツ文句を言っています。

作っているのはバスボムなのに、文句の中身は、
10年以上作り続けている石鹸のことでした。
チャリティイベント等で、みなさんと作っている石鹸と同じものです。

「コールドプロセス法」と言う手法で作る、肌にも髪にも優しい手作り石鹸なのですが、
この石鹸の特徴の一つに、作成後、1カ月熟成させる点があります。

 

母はこの石鹸がいたくお気に入りでした。不器用な私と違って、
母は手先がすごく器用な人で、これまた習い事が苦手な私と違って、
習いごとに行くのが好きな人でした。

 

理由は、「若いころはお父さんで散々苦労して(働き通しだったから)
好きな習い事に行けなかった」と言うのです。

確かに父は田舎の寺の一人息子だったからか、サラリーマンの自分の給料で
一家を養うという考えがまったくない人でした。おまけに多趣味で見えっぱりでしたから、
母がいくら止めても、当時の月賦で買ってくるのです。
田舎ですから、寺の名前を出すだけで月賦を組んでくれたそうです。
おかげで我が家は、いつも火の車だったのです

 

そんな時代を取り戻すため、晩年の母は、洋裁、編み物、お琴、パッチワークと、
色んな習い事を見つけてきては、熱心に通っていました。

娘の私は、母が喜びそうな生地・毛糸などをこちらから送ったものです。

私は長女で、母に頼りにされて育ちました。
なのに、母を北海道に残し早々に東京(今は横浜)へ出て来て、
ほとんど田舎に帰らない娘でした。

私の中にそんな負い目もあったもので、母が喜びそうなものを、せっせと送っていたのです。

石鹸も何かのついでで送ったところ、肌がツルツルになったと喜ぶので、
毎月たくさん送るようになったのです。

 

そのうち母は、「お友達の分も送って。〇〇さんにお世話になったもので、
理子の石鹸を1個あげたらすごい喜んで!他の物はいらないから、
石鹸が欲しいって言うの」と、言い出しました。

母が言う友達とは習い事の仲間のことでした。仲間の人たちが、
本当に石鹸がいいと思っていたかはわかりません。
母は、習い事のメンバーの中で最長老のようでした。
中には、私くらいの年齢の仲間もいたようです。
だから皆さん、年寄りの母には優しくて、母が石鹸を持っていき娘が作ったと自慢げに言えば、
褒めてくれほしいと言ってくれ、母を喜ばせたのではないかと思います。

 

母から何か言われると、口で文句は言っても絶対に断れないので、
私は毎回大量に石鹸を送るようになったのですが、そのうち、
ただの四角ではなく、色んな可愛い型の石鹸を送るようになりました。

可愛い型の石鹸をもらった母の喜びようときたら、
電話の向こうからも、はしゃぐ様子が手に取るようにわかるほどでした。

すると私も、母を喜ばせたくて、毎回違った型の石鹸を送るようになりました。

 

そんな風にして石鹸を送るのはいいのですが、困ったことが一つありました。

送るのはいつも月末なのですが、送る日の10日位前になると電話がかかって来て、

「石鹸、この前頼んだ〇個に、10個追加して送って」などと、言うのです。

 


ここで最初の、ブツブツ文句に戻ります。
「この石鹸は使えるようになるまで1か月。作って切り分けて、送れるようになるまで、
最低2週間はかかる」と毎回説明しても、
母は、「そんな意地悪言わないでよ。お金はちゃんと払うから」
と、支離滅裂な返事をしてくるのでした。

 

夢の中の私はブツブツ文句を言いながらバスボムを作っていましたが、
箱に詰めて、いざ送る段階になったら、バスボムではなく松ぼっくりの石鹸に変っているのです。
その変化に、夢の中の私も驚いていました。

 

母は、色んな型の石鹸の中でも、松ぼっくりの型の石鹸が、えらく気に入っていたのです。
ハート、犬型、キティちゃんの型と、可愛い型は他にもいっぱいあったのに、
松ぼっくりの型に惚れ込んでいました。

「なんでそんなに、松ぼっくりがいいの?」と聞いても、
母はいつも「えー、なんとなくね」と言うだけでした。

 

松ぼっくり石鹸の真相を知ったのは、母の葬儀の時でした。

母の習い後の仲間の1人が教えてくれたのです。

産まれた当時、私は月足らずの未熟児で、体重も2400g前後しかありませんでした。
そこでしばらく、保育器に入っていたのです。
昭和30年代後半の未熟児と現代では、大変さが違います。

そんなに小さくては育たないとか、実は脳性麻痺ではないかと、
母は近所から陰口を叩かれていたようです。


そのわけは、私が2才まで歩かない子供だったからです。
ハイハイもしなかったそうです。

当時の小児科の主治医は、「理子ちゃんは絶対に脳性麻痺ではないから、気長に待つように」
と言って、母を励ましたそうですが、母は依存型の不安の強いタイプの人でしたから、
心配で仕方なかったことでしょう。

 

やっとというか、突然歩くようになったのが2才の誕生日を(5月)
過ぎたころと言うから、驚異的な遅さですね。

歩きだしてからも中々進まず、1人で完全に歩き、走れるようになったのは、
その年の秋のことだったそうです。

当時私たち一家は函館にいて、大きな神社の真ん前に住んでいました。
神社の神主が祖父の友人だったので、幼い私の遊び場は広大な神社の敷地内でした。


当時の北海道は石炭ストーブの時代でした。
秋になると、境内に無数に落ちている松ぼっくりを拾い集め、
それを専用の収納庫に入れて乾燥させます。火をおこす種火として使うためでした.
乾燥した松ぼっくりがパチパチ燃える音と良い香りは、今もハッキリ覚えています。

 

やっと歩けるようなった2歳半の私は、毎日毎日、「神社こー(行こう)」と言って、

母を誘い、松ぼっくり収拾が大好きだったそうです。

2歳になってようやく人並みに歩いた娘が、境内を走り回り、
松ぼっくりを拾っている。その姿を見ていた時の嬉しさを思い出すから、
母は松ぼっくりの石鹸が大好きだったのです。

 

葬儀の時、その話を初めて聞かされた私は、たくさんの人がいましたが、
堪えきれずに泣いてしまいました。立っていられなくなるくらい号泣してしまい、
母の若い仲間の方達に、慰めてもらったものです

 

夢を見た後、5年ぶりに松ぼっくりの石鹸を作ってみました。

いまだに泣けてきました。

聞いた当時は、胸を鷲掴みにされたように強烈な涙でしたが、

今は懐かしさでいっぱいの涙に変わっていました。

 

母がいなくなって、はや5年。涙の変化に、また泣けてきます。

 

長文お読みくださり、ありがとうございました。

 

 

 

 

  • 2019.12.15 Sunday
  • 02:05